2025年7月19日土曜日

cdur と 5つの赤い風船 の間 には 私の記憶に残った 曲と環境を 書くことにしよう。

 幼児期 おねしょの 常習犯だったので 保育園に行くのが 嫌だった。遅く起きて おねしょをごまかすために 替え歌をたくさん歌って 踊った。マンボが流行っていた。現地中買いの人たちが集まっていたお祭りのときは たくさんの人が流行歌を歌った。お富さんや酋長の娘など。 お祭りのお囃子はノーエ節。

両親は歌が好きな私にピアノを習わせようとしたが 金沢市片町に加藤模型店があってピアノより模型とお菓子に興味があった。小学1年のときにはピアノはすぐにやめていた。自分の意思で選んだと思う。テレビが入ってきて月光仮面や赤胴鈴之助や鉄人28号などの主題歌を歌っていた。最終は捕まったかつみしげるのエイトマンだったように思う。明治製菓のマーブルチョコレートを食べながら。

夢で逢いましょうや歌謡番組もたくさんみた。 しっかり覚えている。渥美清、谷幹一、丸山明宏、中村八大、梓みちよ、中島ひろ子、EHエリック、九重佑三子、坂本九、坂本すみこなどなど 上を向いて歩こうが でたのは小学4年生、いとこと大声で歌っていた記憶がある。歌謡番組では三橋みちやなどが主流であったがにゅうぼいすと言われた新人がデビュウしてくるのが楽しみだった。 母が合唱が好きなようだったのでミッチ・ミラーショウもよく見ていた。レコード大賞水原ひろしのくろいはなびらをテレビで見ていたが子供にはピンとこなかった。 家族でも歌ったり楽器を鳴らしたりもした。  小学4年をすぎると なぜが模型やラジオや地理や歴史やスイスなど外国に興味を持つようになった。 また 両親は洗車場や喫茶店を営むようになった。喫茶店にはLPレコードがたくさんあった。 ビリーボーンやパーシー・フェイスの音楽がきれいだと思っていた。小学高学年から中学では深夜放送に聞き入りFM放送も始まった。そこでは バロック音楽 ボサノバ 帰ってきた酔っ払いなど あたらしい刺激がいっぱい飛び込んできた。 最初に買ったLPは ボサノバのゲッツジルベルトだった。次に買ったのはテレマンのアルヒーフレコードだった。 兄とは中が悪かったが兄はピアノを続けていた。 フォークソングに興味を持った私にクラシックギターを買ってくれた。 中学3年の卒業謝恩会のときと企画音楽を作ることになった。テープレコーダーの回転数をかえたり多重に録音したり楽しんだが 企画倒れだった気がする。

高校へ入ってからは 世の中フォークソング大流行だった。 高校1年のとき ベートーベンの第九の合唱の募集をしていたので応募した。兄貴は3年だった。朝比奈隆指揮の大阪フィルで金沢市観光会館で歌った。合唱好きが集まっていた。終わったあと雪がちらついていて 最高の気分だった。ただ歌はは音痴で下手だった。学校の文化祭にも一度だけ出た記憶がある。修学旅行では田島くんが隠れてギターを持ってきていた。阿蘇の高原でみんなで合唱した。いい思い出だ。 学校の剣道場かどこかで みんなで歌っていた記憶もある。楽しかった。  何やかやで受験勉強をして 大学に入った。 なのにあなたは京都へ行くの と いう 歌が流行っていたが 自分の気持ちは 親から離れて 今日で一人暮らしをしたかっただけだった。単純な話だ。流行りのフォークソングからはみ出た 才能のあるやつが たくさんいた。 高2か高3のとき友人の部屋で聞いたビートルズのアビーロード。高3のとき朝の番組で尾崎紀世彦のまた会う日までが聞けるか聞けないかの時間帯で 自転車で学校に行っていた。私は芸術には向かず 手堅い医師を選んだ。でもしか医師だった。試験に通れば良いだけだった。医者になって人を助けようなんて考えたこともなかった。

0 件のコメント:

コメントを投稿