2026年3月5日木曜日

美しくもないのに

 リズムやコードが合っていても美しくない演奏がいっぱいある。 結構聴いていても時間が経つのが遅い。早く終わってくれればよいと思うことがいっぱいある。そんな演奏はしたくないものだ。気をつけよう。 まだまだ そんな領域にはなってないが とりあえず希望だ。

saasあまり意識してなかったが

 仕事しているときは自分向けに昔からのMicrosft accessを使っていた。既成の製品を買うという発想がなかった。今はAIで簡単に思うようなアプリケーションが作れるらしい。つまりサブスクでソフトを買って使うのがアホらしくなってきたようだ。どんどん時代は変化している。まあ仕事の喜びはどこにあるのだろう。 やっぱ自分で悩んで自分で使う醍醐味にあるのではないだろうか。

自閉症の人が家族と一緒にいる

 そのことがなぜ 楽しいのかということを 理解することが重要。家族といること。母親と一緒にいることは 論外に幸せ なのかもしれないということを理解すること。

愛されるということは自分の存在を認めてくれてそして 好きだと 評価されることだ。 自分の存在を認めてくれるというところが重要なのだ。

パニック

 発達障害者のパニック 認知症の徘徊 小児がデパートで迷子になってい母親を呼び泣き叫んでいるとき その3つは。よくにた現象ではないかと思っている。

基準とは

 記憶の集まり  いくつも比較や対照ができる状態でないと基準は出来上がらない。記憶がしっかりしていなければ 当然基準などあり得ない。

言語という音の塊があるとする。それの意味が一義的とは限りでないが発達障害者では 一義的と考えてしまうかもしれない。 それだけ記憶の容量も少ない。

もしかして 記憶の容量があれば 基準というものを自分のなかで作れるかもしれない。

記憶と照らし合わせることはできないが 変化は

 変化は 感じることができるのだ。 ピョンピョン跳ねる行為 それは 体の位置の変化を感じることができて その感覚によって 自分の存在が 認識され 生きているという実感を感じて 嬉しいのかもしれない。

自分が生きているという実感は 生物である以上 基本的に必要なものなのかもしれない。 生物が 自身が生きているという実感がなければ 無生物と同じ 感情のない物体かもしれない。

同じ物を見つける行為は一つだけの記憶で済むのでよいかもしれない。

言葉巧みに批判する人が多いが

 上手である。 正しいという根拠はいらない。言葉の美しい響きで十分なのだ。多くの人はUPされたものの中身なんて見てないのだ。チラ見で つぎのupをみているのだ。よんでない。見ているのだ。いいねの数、フォロアーの数がだいじなのだ。ということを思っていたほうが気が楽だ。