人が死んでから後から何を言ってもからまわり。
もちろん反省も必要であるが 死ぬ前に何とかできないのかと思ってしまう。
たくさん風景を見たい。そこにいる人の暮らしも見つめたい。 車は乗らず、自転車と電車、徒歩で行きます。2017年7月より、自転車旅行で困ったこと、こうしてよかったことをメモのつもりで記録していきます。
昨年の9月5日に松下幸之助の言葉を見つけた。
「うまくいかなかったことに対して運が悪いという人を私は雇わない。付き合わない。」 そのとおりだと思ったし私自身も 他人や神様のせいにしないようにと思っています。まして人をみるときも かなりの基準となっています。
今日電車の中で 仲のよい2人を久しぶりに見た。頭を肩に寄せたり見つめ合ったりしている。しばらくこんな風景見てなかったと思った。 自身も大昔 一瞬だけそうだったのかもしれないと思った。最近男と女同士でもめったにそんな風景に出会わなくなった。変な世の中になったものだと思った。
私と同じ年齢昭和28年生まれの オカマちゃんがいた。若い頃は チヤホヤされたんだろうと思った。けど年が行って化粧のノリが悪くなって チヤホヤされなくなって 彼これからどう生きていくんだろうと思った。 彼はご近所の商店街の人と接近し始めた。ご近所の人も彼の存在を認めているように見えた。そこで私の仕事は終わったがあとどうなった知らない。医者は主訴を持ってきてくれないと何にもしない人種だ。 今から思うに彼が生きていくには 自分の存在を認めてくれる人が必要だと思った。 近くにダウン症の子がいる。ダウン症は小児の頃は素直でかわいい存在だ。母親もよく病気をするので かなりの愛情を注ぎ込む。 20歳を過ぎると小児科ではなくなる。母親も高齢になっていく。自分がいなくなった後のことを考えるようになる。少しずつダウン症の子を 離さざるを得なくなるのだ。 母親や父親はなやむが ダウン症も悩み始める。 なぜ悩むか。両親は ダウン症の児を認めてくれる人がいなくなるのではと悩むのだ。ダウン症の本人も自分の存在を認めてほしいと悩み始める。 自分の存在を認めてくれる人 というのがキーワードだ。 今 居場所づくり とか 福祉施設とか 変化のキザシが見られる。 これもやはり本人が自分の存在を認める人が欲しいのだ。多くの人は自分の存在を認めてくれる人を見つけやすい。一方ダウン症の人やLGBTQの人は自分の存在を認めてくれる人を見つけにくいのだ。そこを理解すべきだと私は思っています。