大学1年2年のとき 5つの赤い風船の 歌をたくさん 小林くんと 汚い学生運動の残骸のようなところで歌っていた。けれどその歌詞が暗く 死んでいきそうな歌詞ばかりだった。この夏休みの宿題があったために大学1−2年の自分自身を思い出した。受験勉強が終わって ホッとしたのもあったかもしれない。あとから思うと自分の行動がなぜその行動を取っているのか一つ一つ自分で考えていた。小林くんも その様に見えた。生協食堂のおばさんからは お神酒徳利と言われるほど 一緒に歌っていた。それはそれで悪いとは思わなかったが 自分自身が落ち込んでいくのがわかった。サブスクが良くなったのであの頃の五つの赤い風船の曲を今は聞くことができる。ほんとに暗い。 少し経って別の友人がカーペンターズのLPを貸してくれた。明るかった。歌えないが聴いていて楽しいものだった。それ以降は 音楽から離れていたような気がする。五つの赤い風船の歌はなんとかギターを弾きながら歌うことができていた。しかしカーペンターズの曲はそうではなかった。英語の歌詞 リズムはいろいろ、楽器もいろいろだった。ほとんどの曲はギターを弾きながら歌えるものではなかった。更に授業もだんだん難しくなっていった。とくに数学 偏微分は今だにネックだ。そしてすっかり歌わなくなって行った。私の妻との結婚のこともあった。妻は小林くんの高校の同級生だった。けれど結婚式に小林くんを呼ばなかった。小林君は同じボート部の緑ちゃんと結婚したようだが わたしもだいぶあとになって知らされただけだった。後輩が井上陽水を歌っていたが ピンとこなかった。 卒業して医者になってすぐに結婚して子供が生まれたが 育てる方針でかなりの意見の対立があった。そんなことない。というのが私の口癖となった。妻からそう指摘された。大学院に行っていた時 コンピューターのビープ音を割り込ませて コンピュータをピアノの鍵盤のように コンピュータのキーボードを割り当てた。 ノートパソコンのプログラムを 娘のために作った。家内はちっとも関心を見せなかった。小さい子供にコンピュータを触らせるなんてもってのほかという態度だった。 明石市民病院に勤めるようになってカラオケスナックに受付の子が連れっていってくれた。8トラだった。その子が歌う森昌子の越冬つばめがいい曲だと思った。 しばらくして開業した。その頃YAMAHAがやっているコンピュータミュージックのコンテストがあったので打ち込みで作曲して コンテストに出した。 まあ見事に落選。他の人京大の学生はループなどを使って本格的なのに驚いた。 CDが発売されるようになった。テープの時代は終わっていった。最初に買ったCDは沢田知可子の会いたい だった。 診療所に有線440チャンネルも入れた。 カラオケスナックにも行った。午前2-4時の朝帰りも頻回だった。 そのうちお店もつぶれていき 仕事に専念せざるを得なくなった。またも音楽から離れた。 そのまま仕事をやめるまで音楽とは離れた生活をしていた。 長野に引っ越してから エレキギターを買って 思い切って先生に習った。医者をやめたので労働についてよく考えるようになった。医者を辞める少し前から関心を持っていた ブッダの教えについても 自分自身でいっぱい考えた。信濃町の風景写真と小林一茶の俳句にを並べてスライドショーにした。バックの曲を 組曲にして ミキシング 自作演奏で 作った。 けれど ビート リズムについていけなかった。 この学校に来てから Tim先生のリズムの授業は目からウロコだった。 現代の音楽が少しずつわかってきた。これが分かっただけでこの学校に入学した意味が90%は達成できた気になった。 あとはピアノ ギターが 歌いながら弾けることだ。 それから ぜひとも学校にいる間に 信濃町のご当地ソングを作りたいと思っている。
とても 私の 音楽との関わり合いの自分史は複雑だがはしょりすぎだった。
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