2023年11月27日月曜日

音楽のある風景シリーズ より 青春の歌風景とMy Memories  で 思うこと

 この2つの 全集は 当時の原曲を忠実に再現してくれている。itunesなどでスマホクラウドにためていると 良い音で聞ける。

2つの全集に収められた曲の発売当時の日本の世相が敏感に反応していることがよくわかる。2023年70歳の私だから より わかるような気がする。

歌は世につれ世は歌につれという言葉がかなり真実に近いような 気がしてくる。 結構 はっきりわかることだが1970年昭和45年あの万博の年が大きな境目 歌の世界も日本も大きな境目だったんだということだ。 私が京都に来て大学に通い始めたのが1971年4月昭和46年4月だ。学園紛争が一息ついて大学の小さなキャンパスは無気力感であふれていた。 何かをすべきだが あの ただ暴力で暴れまっくた学園紛争のようには なりたくないという思いが沸いていた。 1970年までに歌っていた歌は陳腐なものになっていた。1971年に何を歌ったらよいのかどうしたらよいのかとても迷っていた。18歳という 年齢は迷って当たり前なのだが 日本も 作詞家も迷っていたと 思う。この年になるとそれが わかる。  1971年は狂乱物価 物の価値が変わっていく年だった。1972年昭和47年にはあさま山荘事件が起きている。

年順に 歌を並べてみたいと思う。ほかで乗っている曲も並べてみた。

1967年 帰って来たヨッパライ ザフォーククルセダーズ

1967年 この広い野原いっぱい 森山良子

1967年 血まみれの鳩 五つの赤い風船

1968年 亜麻色の髪の乙女 ヴィレッジシンガーズ

1968年 小さな日記 フォーセインツ

1968年 遠い世界に 五つの赤い風船

1969年 恋は風に乗って 高田渡・五つの赤い風船

1969年 白い色は恋人の色 べッツィ&クリス

1969年 希望 フォーセインツ

1969年 イムジン河 ミューテーションファクトリー

1969年 風 はしだのりひことシューベルツ

1969年 夜が明けたら 浅川マキ

1969年 ひとり寝の子守歌 加藤登紀子

1969年 或る日突然 トワエモア

1969年 時には母のない子のように カルメンマキ

1969年 白いブランコ ビリーバンバン

1970年 秋でもないのに 本田路津子

1970年 希望 芹洋子

1970年 今日でお別れ 菅原洋一

1970年 圭子の夢は夜ひらく

1970年 手紙 由紀さおり

1971年 しおさいの詩 小椋佳

1971年 花嫁 はしだのりひことクライマックス

1971年 あの素晴らしい愛をもう一度 加藤和彦&北山修

1971年 戦争を知らない子供たち ジローズ

1971年 琵琶周航の歌 加藤登紀子

1971年 竹田の子守歌 赤い鳥

1971年 翼をください 赤い鳥

1971年 カレーライス 遠藤賢司

1971年 さらば青春 小椋佳

1971年 自転車にのって 高田渡

1971年 よこはまたそがれ 五木ひろし

1971年 また逢う日まで 尾崎紀世彦

1972年 プカプカ 西岡恭蔵

1972年 結婚しようよ よしだたくろう

1972年 少女 五輪真弓

1972年 学生街の喫茶店 ガロ

1972年 春夏秋冬 泉谷しげる

1972年 ケンとメリー~愛と風のように BUZZ

1972年 ぼくの好きな先生 RCサクセション

1972年 傘がない 井上陽水

1972年 夏休み よしだたくろう

1972年 赤色エレジー あがた森魚

1972年 だれかが風の中で 上条恒彦

1972年 瀬戸の花嫁 小柳ルミ子

1973年 神田川 かぐや姫

1973年 てんとう虫のサンバ チェリッシュ

1973年 夢の中へ 井上陽水

1973年 あなた 小坂明子

1973年 心もよう 井上陽水

1973年 母に捧げるバラード 海援隊

1973年 僕の贈り物 オフコース

1973年 家をつくるなら 加藤和彦

1973年 ひこうき雲 荒井由美

1973年 心の旅 チューリップ


1974年 以降は いい曲が ヒットしていた。 


1974年 白い一日 小椋佳

1975年 めまい 小椋佳

1977年 冬の稲妻 アリス

1975年 卒業写真 ハイファイセット

1976年 どうぞこのまま 丸山圭子

1977年 雨やどり さだまさし

1977年 渚のシンドバッド ピンクレディー

1978年 君のひとみは百万ボルト 堀内孝雄

1978年 時間よ止まれ 矢沢永吉

1979年 関白宣言 さだまさし

1979年 魅せられて ジュディオング

1980年 異邦人 久保田早紀

1980年 青い珊瑚礁 松田聖子

1980年 SACHIKO ばんばひろふみ

2023年11月25日土曜日

救急車とご近所

 田舎の医療が提供不足となっていると救急車が都市医療機関に搬送することがより重要となってきている。救急車が来ないと救えるものも救えないのだ。

さて 25年くらい前までは 救急車がサイレンを鳴らしてくると ご近所からたくさんの人が見に来たものだ。 いまはそんな光景は見られない。 こんな田舎町でも見られない。

なにが 変わってきたのだろう。

1.サイレンが鳴り響いても まわりに 聞く人がいない。高齢者は動けないし、聞こえない、住んでいる若者は遠くに働きに行っている。ご近所は寝るだけ。 あるいは人が住んでいないかもしれない。

2.サイレンを鳴らさないできてほしいと救急隊に要請する。

3.近所に救急患者が発生しても自分には関わりのないことと思っている。ご近所とは無関係の生活ができている。 ご近所が入院しようが死んでいようが どうでも良いと普段から思っている。ご近所の家が空き家になっていて時間が経っても知らないで生活できる。

いろいろだ。  昔が良いという訳では無いが 実質の医療がなくなってきている現在、救急搬送はますます重要になってきているのだ。


2023年11月15日水曜日

病院の医師が週一回病院を抜け出して 他のところに行って何をしているか。いろいろ。

 今と昔とでは随分違うと思うが私の経験から考えられること。大学の医局や教授の力があった頃とそれがなくなってしまったところでは随分違うとはおもう。

1,教授のちからが強かったときは 関連病院から医師を呼び戻して大学の研究室で 1日実験や研究をさせていました。ときには学会発表の準備や論文を書かせていました。

2,別の病院に行っていただき そこの医師に技術を教えたり、そこで 外科手術を行ったり、症例を集めて研究発表に用いていました。 

3,別の病院や大学で勉強したり最新治療を習得するためにでかけていきました。

4,新たな医療地を開拓する、広めるための下地づくりに行っていました。

5,別の病院で外来と当直を請け負ってバイト料を頂いていました。


などなど病院から医師が週一回抜け出して何をしていたのか 紹介させていただきました。

これは 都会の病院も田舎の病院も医療の質の向上や医師の医療技術の向上には 大変役に立っていたのは事実です。 もちろん田舎の病院への医師の派遣にも貢献しておりました。  

2023年11月14日火曜日

いわゆる災害弱者を守るという発想から の 災害時要援護者名簿の作成

  • 災害時要援護者の発見とネットワークづくりのため、自ら希望して登録する方式で名簿を作成し、事前に地域の関係者に提供し、地域で見守る体制づくりに取り組んでいる。
  • 要援護者情報の収集・共有に関しては、風水害の際に被害が頻発する地域を中心に福祉関係部局が、所要の手続きを経た上で、「要援護者名簿」を事前に作成し、防災担当部局に提供できる体制を整えている。

内閣府から 各自治体に要援護者名簿の作成の要請が来ている。 地域の実情をよく知る民生委員の方が その作成に協力するのは 合理的ではある。 一方その名簿の内容とその使われ方は 地方自治体が責任を負うものである。要援護者の命を守る、あるいは災害の種類によってはいち早く避難所に運ぶ というのが その目的である。 
 リストに基づいて個々の方をどうやったら命を守ることができるかの 検討がなさねばならぬ。 また どうやったら 内容を防災担当部局にタイムリーに報告共有できるか が 検討されなければならる。
 単なる 要援護者名簿を作るだけ、体裁を整えるだけでは意味がない。  助かるものも助からない。

2023年11月13日月曜日

病院の閉鎖が相次いでいるが。その理由は色々ある。さてあなたの町の病院はどうする


https://hospital.co.jp/news/%E7%97%85%E9%99%A2%E3%83%BB%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%83%8B%E3%83%83%E3%82%AF%E3%81%AE%E9%96%89%E9%8E%96%E7%8A%B6%E6%B3%81%E3%80%802023%E5%B9%B4%E7%89%88/

新型コロナウイルス感染症に対して日本政府がとった政策により 補助金が得られたとか 予防接種事業を行うことによって収入を得ることができた など に より 悪化していた病院経営に対し 少し改善傾向が見られたのは事実である。 しかし 経営状態が悪いのは 継続しているのも 事実である。

なぜそうなっているのか 私の経験から考えてみたい。なかなか医者ではないとわかりづらいところがある。私の家内すら簡単には分からなかった。家内は娘を医者にしようと思っていた。私は反対した。かつて 職域仲間も患者も女医差別が当たり前だった。 また日本政府の政策は医者を追い詰めているのがよく分かっていた。医者は将来すたれていく職業であることも分かっていた。

なぜわかるかと言うこと 医者がすたれていくということ 病院医院の経営はわるくなっていくこと 色々説明していきたい。

私が医学部を卒業したのは昭和53年、 インターン制度は廃止されていたが 今のような研修医制度は確立されていなかった。今は研修指定病院で研修すれば保険医になることができる制度だ。 昭和53年頃 インターンを経ていない 医師免許を取得したばかりの医者の月給は多くて30万円ぐらいだった。 数年経つと大銀行のエリートは医者の月給をすぐに超えると 言われていた。


私が開業したのは昭和63年。その頃医者の多くは所得税申告に 白色申告を行っていた。経費率が70%?認めるというものだった。1000万円の収入があるとすると700万円は経費となり 所得は300万円 その分の所得税税金を払えば良いです。というものだった。例えば実際の経費が100万円ですんだとすると 1000万円の収入があると実際は900万円の所得があるのに 経費率70%で 白色申告すると300万円ぶんの所得税しか払う必要が無いということだった。 それで 開業医は実際の経費を下げようと努力をした。使い捨ての注射器や注射針は使わず自分のところで消毒した。薬の問屋からの買取価格を超安値にした。従業員の給料も安く抑えた。 ゴルフも自腹を切ることはなかったかもしれない などなど である。ところが昭和63年?からは白色申告の経費率は最大50%までしか認めませんということになった。 つまり1000万円の収入があるのに500万円の経費をかけると 500万円の所得となり トントン。  私は経費がいくらになるか見当がつかなかったので 昭和63年から青色申告にすることにした。白色申告は採用しなかった。

そのうち白色申告で認められる経費率もどんどん下がっていった。 いまは経費がどんどん高騰し1000万の収入を得るのに950万かかっているかもしれない。多分ほとんどの医療機関は青色申告をして、しっかり経費を申告していると思う。

つぎに社会保険制度からみていく。 国民皆保険によってすべての日本国民が保険料をしはらい、全国どこでも同等高度の医療を保険証一枚見せれば受けることができる仕組みだ。

少子高齢化、国民の医療を受けたい要求の増加、 保険料と国家の社会保障費の投入では 国民の医療要求には応えられなくなってきた。 社会保険による医療の破綻が目の前に迫ってきたのだ。   存続するためにあの手この手が 考えられてきた。 医療を充実すると国民の人気が高まるが医療を減らすと国民の不満が高まる。 国民にわからないように医療をへらすことが 政策として考え出された。 病院医療から在宅医療へ。医療から介護へ。介護も施設サービスから在宅サービスへ。   また医療費そのものをへらすため薬価をさげたり、薬による収入が 医療費の支出になるので、調剤薬局に分散させたり、ジェネリック医薬品の推奨を行ってきたりした。 そのことは 直接医者の収入減となっている。 などなど なりふり構わない厚労省の医療保険制度維持の施策には 医者うんざり。また 質の悪いジェネリック医薬品のために 死亡者が出る事件にまでなった。 もうこの施策は 限界に達している。 しかし、それに変わることが あるかといえば無いというのが現状だ。  保険料だけをとって保険医療をうけるな というのは あってはならない。 質の高い医療を保険証1枚で全国どこでも受けられるというのが 日本人の誇りではある。

2023年11月10日金曜日

言語に代表される一般化やアナログ的なものの省略

 Facebookのいいねボタンが使われはじめた時の戸惑いを 覚えているだろうか。 その書き込みや画像が いいね だけでは 伝わらない いろんな思いがあったのにと 思われた方は多いはずだ。 今は いいねボタンの種類が増えている.人によって いいねボタンの役割をきめているかもいます。見ましたよ とか 感動した とか どうでもいいねとか よくないのに見てしまったご苦労様 とか 色々です。 アンケート調査でも良くあります。対象者とか方法とか いい加減なアンケートに多いですが。 この製品は良いですか 悪いですかの2値しかないも。 yesもnoもいろんなyes noがありますね。 結構そんなものにならされていると思いませんか。 音の場合は アナログデジタル変換技術が進んで 簡単には 聞き分けられ無くなっています。  ことばは何かの現象を代表しているものですが だいたい言葉が代表している現象が共通であるという認識で普段は生活しています。 言葉の持つ意味が人によって違うと思い始めると 生活できなくなります。適当なところで妥協しているのです。 

 私たちは一般化したがる存在ではありますが 一般化をやり過ぎると 見えるものも見えなくなってしまいます。気をつけましょう。

2023年11月8日水曜日

秋の叙勲

 長年 民生委員をやってきた人には 天皇陛下から 勲章が贈られる。町の職員が長年勤めても 勲章はもらえない。 町の職員にこきつかれようが

民生委員は国が認める厚労大臣が辞令を出す人びとなのです。お忘れなく。

2023年11月7日火曜日

信濃町の将来像として観光と農業の振興をうたっているがそれで良いか。

 観光については インバウンド、流行、感染症など 不確定要素が多い。またかつては スキーブームなどで 信濃町は潤ったらしいが 今はすたれている。

農業についてはどうか。柏原周辺の耕作地を見ると大変なことが見えてくる。農作業に出ているのは 高齢者と農機具屋さんの職員だ。機械と農薬を使って かろうじて 維持しているのが見える。小川には魚はおらず 子供達はフナをとったこともなくどじょうすら見られない。 果たしてこれが 10年後にはどうなっているのだろう。

また 大きな企業が農業法人として進出してくるかと言うこともあるが その様子は見えない。信濃町に移住したり、リタイアして農業を営んでいる人が それで生活できるかと言えばごく一部かもしれない。稼げる人は少ない。 隣の飯綱町と比べても 収穫できる作物が少なく量も少ない。コストもかかる。

歴史的に見ても 柏原村または町は 江戸時代には年貢が安かった。農作物が取れないのだ。江戸末期には 人の移動が盛んになり旅籠などで潤うようになった。また農機具などの鍛冶屋集団も存在した。文化人としての小林一茶も自分の力で食料を得ていたと考えられる。農業ではないのだ。

近年はブルーベリーやとうもろこしなどの農作物が作られるようになったがそれでたくさんの人を養っていくのは無理があるように見られる。

結局 信濃町や柏原は農業を基幹産業として農業を 振興していくには難しいのではないか。と言うのが私の結論だ。

2023年11月4日土曜日

本 英訳一茶100句集 ほおずき書籍

 



雪とけて 

村いっぱいの

子どもかな

は有名な句です。 

この英訳は素晴らしい  this is good time too for adults ,who are happy to see the children play