2019年2月13日水曜日

東大寺の坊さん鹿が嫌い な 訳

歴史的に見ても 深い訳 が ある と 最近私はわかってきた。 大化の改新のときは のときは 中大兄皇子と中臣鎌足は蘇我氏とは敵対だが 互いには? 興福寺 和銅3年710。鎌足の子藤原不比等の発願。 東大寺大仏開眼752年。天皇家は京都に移る。藤原家は奈良と京都の両方に勢力を展開? 平安初期 荘園からの財でうるおう。鹿島の鹿?でやってきた春日社と結託し財を分け合う?。二月堂は東大寺と春日社の中を取り持つ。幕末まで藤原家と天皇家はもちつもたれつ。
興福寺は廃仏毀釈のとき 落ちぶれて売られようとしていた。東大寺は天皇家の寺。廃仏毀釈の影響を受けたのか定かでない。幕末には天皇家が急激に盛り立てられた。 いつも天皇家東大寺の陰に隠れ甘い汁を吸ってきた春日社興福寺藤原家が 我慢できないのでは ないだろうか。 日本書紀以前 天皇家と藤原家は日本列島にやってきた時期が違う、部族が違う ような気がする。


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