2024年4月16日火曜日

一茶の評価

 先日 あるかたの家を訪れ漬物をあてにお茶を飲んでいた。そのときに信濃町の経済状況とその変化の話になって 小林一茶のことが話題に上がった。80歳を超える御夫婦だ。 今でこそ一茶はとても歓迎され評価も高いが自分たちが若い頃はそうでもなかった。評価は信濃町では低かったとのことだ。一茶の俳句でも信濃町での暮らしは快適なものでなかったとわかるはずと おっしゃっていた。そう言われてみると 彼は 死ぬときには土蔵の中で暮らしていた。

見かぎりし故郷の桜咲きにけり とある。また やけ土のほかりほかりや蚤さはぐ とも詠んでいる。うつくしや障子の穴の天の川。

あまり いい生活はしてはいないが とにかく 柏原が すき だったのではないかと思われる。 全国を旅し関東にも住んでいたが 最後には 柏原に住んでいる。 やっぱり 柏原がすきだったのかもしれない。

 一茶の句に 雀の子そこのけそこのけ お馬がとおる という 有名な句がある。大名行列で柏原が 潤ってきたので 詠んだものだろう。  農業や産業で柏原が潤っていたのではないと 私は想像する。

 江戸時代末期 柏原は景色はよいが そんなに 裕福な町ではなかったのではないか。一茶は 近隣の町村に 出かけていって泊めてもらったり食事をごちそうになったりしている。そして俳句を詠んでいる。 文化的ではあるが生産者ではなかったと思われる。

 江戸時代には他に芭蕉と蕪村がいる。 芭蕉は伊賀の出身ではあるがなくなったのは大垣。ずっと旅をしていた。 蕪村は 大阪の毛馬あたりの出身だが 与謝に行ったりしているが ほとんどは 京都四条、松原や京都の南の方の菜の花がたくさん咲いているところにいた。なくなったのは松原あたりかもしれない。大阪の毛馬には帰ってはいない。

 3人の俳人を見ても 一茶はあちこち行ったが 結局は生まれ故郷の柏原に帰ってきている。 私は 裕福ではないが景色の良い柏原が好きだったのではないかと 思っている。

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