ふと自分を見直した。中2の時 生徒会長だった時。万年筆持ち込みの規則を廃止しようとして反対多数が噴出した件。その時から 自分の考えを無理に通すのをやめた。多様な考えがあると理解した。 それ以来 長になるのはやめようと生活してきた。自分はほおっておくと自然と前にしゃしゃり出てしまう。危険人物だと思った。
たくさん風景を見たい。そこにいる人の暮らしも見つめたい。 車は乗らず、自転車と電車、徒歩で行きます。2017年7月より、自転車旅行で困ったこと、こうしてよかったことをメモのつもりで記録していきます。
2025年5月28日水曜日
2025年5月27日火曜日
テレビのCMでも 街の看板でも あまりに 飲酒を奨励するものが多すぎる。
江戸の末期では飲む打つ買うが 良いようにされ 明治に来て一気に表向き変わった。昭和には24時間働けますかなど 飲むより 働くことが良いとされた。飲酒はむしろ表面的には悪で会社や企業間での潤滑油と思われていた。 しかし 最近はどうだろう 街には飲酒をした若者で溢れている。若者の小集団は飲酒をおこない奇声を発する集団に変貌している。 向き合って飲酒をしながら 世の中を憂いている若者はいるのだろうか。
2025年5月26日月曜日
若者の苦労
今までネットやスマホの使用を制限されてきたのに 急に都会に出ることになって 毎日ネットやスマホがないと生活できない状態になる。 相当焦る。友人などに聞ける状態であるとよいがそれができない人はどうするのだろう。 心配する。大学でゆっくり考える時間もない。職場でゆっくり仕事のことを考えることもできない。 そういう状態になっている人はいないだろうか。心配する。心配するとは。
お年寄りであれば詐欺被害にあって しばらくして 世の中から退散。
しかし 若者はそういうわけにはいかない。ルフィーや松本智津夫のような 悪意を持った自分の利益のみ追求する指導者に 誘われると 若者の先がどうなるかわからないのだ。殺人、や ネット詐欺の片棒を担いだり、すれば その先の人生がなくなるのだ。日本や地球をまかすことができなくなるのだ。 先に述べたように 心配された若者はネットやスマホを自由に操る部類の若者ではなく よく考えるやや内気な若者なのだ。
みなさん。心配になりませんか。
2025年5月25日日曜日
歩きづらい
ペットボトルなどのゴミや掘り返しの跡で 歩きづらいと思っていた あるまち。今日はふと思った。さらに歩きづらい原因を想像した。道路の中心から家やビルなどの建造物までの距離がいろいろなのだ。 道路は道幅を広めるため いろんな規則で 建物を建て替えるときに数メートル下がりなさいと要求される。その規則が変わったり 古い建物が建て替えられず残っていたりする場合 歩くところが左右に揺れているのだ。ゴミや掘り返しは上下だが道幅の規則は左右。 だから歩きづらい。と ふと思った。
2025年5月21日水曜日
散歩と読書を名刺に掲げていましたが。
国立音大に行くようになって実行が難しくなりました。
毎日が日曜日でしたが 月月火火水木金金 毎日学校に行くことになった。
読書をする時間がなくなった。学校から帰ると結構疲れている。まして洗たくコインランドリーや食事の用意がある。
さて どうするべきか。
2025年5月4日日曜日
テルアビブ
ヘブライ語で春の丘 意訳して古くて新しい国
イスラエル国家の構想。 p83 NEXUSより。
もとはウクライナ出身のユダヤ人。弾圧などが書かれた詩。一方パレスチナのアラブ人がどうなろうと知ったこっちゃないというものだ。
2025年5月1日木曜日
本 NEXUS 情報の人類史 上 ユヴァル・ノア・ハラリ著柴田裕之訳 河出書房新社
この本で扱っている情報は人間同士のやり取りのことで人の個体の中でシナプス網でつながっている話 脳科学や仏教学の話ではない。 はじめに言っておく。
プロローグではっきりと主張することが書かれている。 p10
自分の手に余る力を呼び出す傾向は、個人の心理ではなく、私たちの種に特有の、大勢で協力する方法に由来する。人類は大規模な協力のネットワークを構築することで途方もない力を獲得するのものの、そうしたネットワークは、その構築の仕方のせいで力を無分別につかいやすくなってしまっているといるのが、本書の核心をなす主張だ。
p11 だから妄想的なネットワークは失敗する運命にあると決めてかかるべきではない。そうした全体主義政権の勝利を防ぎたければ、私たちは自ら懸命に取り組まなければならない。
ブッダの考えに近いが p28 本書は、そのような中道を探求することに捧げられている。
また マカフィーの宣伝メールの日本語訳より
AIの発達により、本物と 偽物の見分けが難しくなっています。そこで、AI搭載の詐欺検知機能が お客様のプランに組み込まれました。
情報そのものに力があるのであって 真実であるのか嘘なのかは 次の次の次くらいのことであると言っているカモネギ。